不安とはより強固な安心を得るためのおクスリであって、というのは不安があるから相対的な感覚として安心を感じられるのよ的オメデタ思考ではなくて、不安になれること自体が何よりの安心材料で不安感がないことが何よりの不安材料だって事

心を閉ざすほど喜ばれる、素直なままでいいんだよと言ってくれる人たちが本当に求めてるものは彼らの「素直」イメージに迎合する体裁で本当の素直さは結局つよく拒絶する、ひどく歪んだ人間がいるのを知らないから簡単に言える事、

自分のこと理解しなくて全然いいからそういうの分かってくれる人間が身近にいてほしかったそういうのに対して過剰なまでに意識的自覚的な人が、

共通するのはどれもこれも最終的に助かりたいための営み

わたしはどうやらわたしの人生を誰かに尊重してほしいらしいくてまたみにくいことになるな

尊重されたとしてその尊重の念からすんなりと軽蔑の要素を見出して予定調和のように混乱して安心するこのテの自慰においては玄人よ

自己憐憫といえば事実として正しいけど私が求めてるのはそれではない事を示したい

たとえば自分を憐れむことが出来る神経を不安に感じるこの上ない安心ですつまり自分を蔑もうが蔑むまいがどうでもよくただ安心システムの一例ってだけで、

自死こそが自己実現といわれるのとてもとても、とても解る

回復なんてしたくありませんかつてのような無自覚はおそろしい

たとえば今こうして思いつくままに投下する言葉の数々も本心から思うことかはわかりませんという自覚がある、言葉を投下できる事自体に安心したいか本当か否かわからない事を自覚できる事を自覚するためかそれともなにもかんがえてないかだ

もう理解に至ることより疑うことが、理解のためのプロセスが目的化していて言うなれば懐疑中毒ですね

この説明に落とし込むための一連のポストだったのかという気もしてきたしもはやわからないわからない事は混乱です、